こんにちは、yasuhaです。
今日もご覧くださりありがとうございます。
今回も、フリーランスのwebデザイナーを目指す障害当事者(障害者)であるyasuhaの活動について書いていきます。
……と言いたいところなのですが、今回は「障害者×フリーランス」という当ブログのテーマからは少し外れて、単純にふと記しておきたくなったことを書きます。ちょっとした読み物(ボリュームはありますが……)としてお付き合いください。
テーマは「お片づけ」です!
植物を置きたい! 片づけがしたい!
事のはじまりは昨年12月下旬、友人に「健康のバロメーターになるから、観葉植物を置くのはおすすめ」と言われたことです。いわく、自分が元気なときにはちゃんと手入れをする。自分に余裕がないと植物の手入れも雑になる。だから植物を見ると自分の調子に気づけるのだということでした。
言われた日はなるほどと頷いて帰ってきたのですが、年始の実家イベントを離脱して数日、おうちで改めてひと息つくとウズウズしはじめます。そう、「うちにも植物を置きたい!」です。
そしてそれは「片づけがしたい!」に繋がります。
理由はお察しかと思いますが我が家には物が大量にあります。観葉植物を置く場所などないのでした。我が家は1Kで8畳くらいなのですけれども、この空間のなかにベッド、机(80×80センチくらい)と椅子、本棚、カラーボックス2個、そしてなによりピアノがあります。(そして本棚の前には行き場のない段ボールもあります……)
「部屋の中に置くなんてどうやっても無理だ、ベランダにハンギングにしようか」「どのみちいつか作業環境を整えないといけないしこの機会に模様替えか」などとあっという間に大きく風呂敷が広がるのがわたしの悪いところ(もしくは、病気の為せる技?)ですが、それはとりあえずぐっと堪えて。「まずは部屋を片づけよう」に落ち着きました(落ち着いてよかった……)。
そういうわけで、片づけをはじめることに至ります。
ウズウズをKindle unlimitedで宥める
で、こういう「これをしよう!」と思ったときのわたしは糸の切れた凧に等しく、ここで対処をしないといよいよそのまま飛んで行き、どこにたどり着くか分かったものではない……と自分でも分かっているので、毎度最初にやっていることがあります。
それは、Kindle unlimitedでの関連書籍の読み漁りです。
新たなことをしようとしてテンションが上がっている状況ですから、いきなり行動すると、おかしな方向に行くことが目に見えています。たとえば今回は片づけなので、「必要なものまで捨ててしまう」「片づけのために必要だと考えて過度の出費をする」などです。
ですのでとにかく目の前にやることを設定して、突発的な行動を抑えます。情報収集もできます。
ちなみにKindle unlimited、悪口で申し訳ないですが、本と呼ぶにはおこがましいという内容の本も山ほどあると感じています。でも今回の目当てである片づけについては、特に正解がある類いのものでもないので、自分に合うものを探すつもりで割り切って眺めます。
実際のところ、宥められているのか拍車をかけているのかはなんとも言えませんが、今回は少なくとも一呼吸置けたというか、下手な行動や出費はせずに済んだと思っています。
今回読んだ本は片付けや断捨離についてのもの、メルカリやヤフオク、ジモティーの使い方について書かれたものあたりです。簡単な本が多いので、結果として10冊以上くらい読んでいます。が、このへんの適正量はひとそれぞれかと思います。あくまで目的は情報収集と行動抑制。
余談ですがわたしの場合、「Kindle unlimitedで読み漁っている」状態自体が、テンションが上がっていることを示します。鬱のときにはそんな元気はありませんし、落ち着いているときにはもう少し緩やかに、ひとつのことに集中しすぎないようにして時間を使っています。
つまりこれもひとつのバロメーターなわけですね。こういう指標はいくらあってもいいと思います。
食料から趣味のものまで、サクサクはじめる
わたしの場合、捨てられそうと目を付けたのは「服」「本」「趣味のもの(ゲームのグッズとか)」「雑貨」などでした。みんなそんなものでしょうけども。
あとは単純に期限切れの食料のチェックなんかもしましたが、これはもう本当にただ捨てるだけなので割愛。もちろんこういうのも執着して(もったいないとか)うまく捨てられない方はいるかと思いますが、幸いにしてわたしはわりとサクサク取り組めました。「家の片づけをすると決めたのに、このような明確にゴミと判別できるものがあるところに取り組まないのでは元も子もない」みたいに割り切れていたのが良かったかも。
(一応言い添えるとノウハウ本にも、食料のほか、日用品の小さな引き出しとか、思い出や趣味が入り込む余地のないところから取り組むのがオススメと書かれています)
食料が終わったら、趣味のものから手をつけはじめました。ちなみに一般論としては悪手だと思います。(趣味の物、思い出の物は最後にという意見が多い)
これらはまとめて売り払うべく、駿河屋(ゲームなどの売買ができるお店)に見積もりをお願いしました。意外にもそれなりにまとまった額になりました。不用品回収を検討できたのは、業者に回収してもらっても費用をこれで相殺できると思えたからで、ありがたいことでした。
そのほかに服や本はメルカリに出しました。それと、ギターをジモティーに出しました。
メルカリは、まったく成果が無かったわけではないですが、わたしには向いていませんでした。というか急いで手放したいひとには向かないのだと感じました。コツコツやる方にはいいと思います。一定のもの(たとえば服など)を出し続けるひとには、それを目当てとするフォロワーもつきますし。やり方と積み重ね次第とは思います。
というわけで個人的な結論としては、「メルカリは手間のほうが多い」です。趣味と実益を兼ねて楽しめるひと、やっぱりお金に換えたいと思うひとには良いかも。売れると嬉しいのは事実ですから。
ジモティーに出したギターについては後述します。
手放せない物はなるべく持たない、贈らない?
順調に手放す物の判別ができたと書きましたが、それでもやっぱり難航したものはあります。
どうしても気が引けたのが、先に書いたギター。友人にもらったものです。
これはもう素直に、ごめんなさいとありがとうを友人に伝えることにしました。
手放す理由については正直に、そしてポジティブに伝えました。「ギターをくれて嬉しかったし、今でも大事にしたいという気持ちはある。でもピアノも仕事にすると決めて、ギターの練習はできないと思った。ピアノをがんばるという踏ん切りをつけるためにも、ギターはもっと大事に使える人に譲りたい」という具合に。
友人から返ってきた言葉を察するに、正直悲しませてしまったと思うのですが、これがひとつ良い経験になりました。
どういう経験かというと、「容易に手放せないものは手に入れないほうがいいかも、と思った」ことです。そもそもこのギターは、わたしがamazonほしいものリストに入れていたので贈ってくれたものです。本当に欲しくてリストに入れていた物だし、貰えて嬉しかったのだけど、貰ったことでどうしたいのかまで考えていたわけではありません。たとえば今回はギターですから、どんな曲が弾きたいのかとか、どんな場面で活用したいのか、練習はできるのか……などです。
大切なひとがくれたらやっぱり愛着が湧きます。だからこそ、「わたしはそれがあることでどうしたいのか」が曖昧なものは安易に手に入れるべきではない。
ちなみに「どうしたい」とは道具の使い方に限りません。どんな気持ちになりたいか、なども含みます。ギターの場合、「練習できなくて申し訳ない」という気持ちになりたいはずがありません。
また同じく執着を覚えたものが、これまた親や友人にもらった着物です。
これについては捨てて良いか迷っているのではなく、不要だと分かっているのにも関わらず処分する決断ができませんでした。手強かったです。
これも「容易に手放せないもの」です。親が嬉しそうに選んでいたから。友人が似合うと言ってくれたから。でも活用する機会を作る生活はなかなかできそうにない。大事にしてあげられないということです。そういうものを手元に置くことに悩んでいる虚しさに気づいてようやく、手放そうかな……と思えました。
ちなみに片付けが趣味のフォロワーさんがおり、いろいろヒントをくれました。この「いらないのに捨てる決断ができない」ことについては、「限界まで悩んでみて、ここまで苦痛を溜め込んだんだから、手放して後悔しても納得できる、と考えて回収に出すのもアリ」「たとえ捨てたあとに後悔しても、それは本当に必要な物だと分かる経験ができたということ」など、アドバイスをくれました。
もらうときは嬉しい。でも振り返ると、その時でさえ「たくさん着よう」という気持ちで受け取れたわけではなかった。だから次になにか貰う機会があるとしても、活用できないと思ったらなるべく受け取らないようにしよう、と思いました。
わたしはこの経験で、ほしいものリストやLINEギフトに入れている物をかなり減らしました。いま入れているのは本(webデザインの参考書と楽譜)と食品くらいです。
そして同じことが、自分が他者に物を贈るときにも言えます。
わたしも「似合いそうだから」という理由で服を贈ったことがありますが、今になって申し訳ない気持ちになりました。わたしの場合は不用品を処分することを兼ねていたからなおさらです。
結果として相手がどのくらい喜んでくれたか、いまその服をどうしているか分からないけれど、物を贈ることにはもっと慎重にならないといけないと思いました。
(ちなみにわたしが服を譲った相手にこのことを伝えたら、「ほしいと思ったからもらったんだよ」と言ってくれましたが)
簡単に処分できないくらい大切なものがあるのは、とても素敵だと思います。
でもそれは、「どうして処分できないか」に後ろめたくないことが大事だなと思いました。
ですので見出しは「手放せない物はなるべく持たない」と書きましたが、「手放せない理由に真摯であれるものだけ持つようにする」くらいが正確かなと思います。
最後に。
ギターは無事にジモティーで引き取り手を見つけたのですが、取引相手はフリーランスで音楽を行っている方でした。言わずもがな、少しでも情報を教えてほしい! と思う相手です。お願いして、引き渡しついでにお話をさせていただくことにしました。
友人に申し訳ないことをしたという思いはあるけれど、最後に思わぬ縁につなげてもらって、友人には感謝を新たにしました。手に入れ方と手放し方、ともに大切ということだと学びました。
イライラを業者さんとのお話で宥める
さて片付けの経過について。
捨てるものの判別は順調に進められたのですが、途中で非常にイライラしました。思うように処分ができず、不要と判断したものが部屋を占領していることに対してです。
ちなみにこの途中、片付けが直接的な理由ではなく、別件で体調を崩しました(片づけをがんばりすぎていたという間接的な理由ではあったと思います)。鬱が出ていたので、とにかく寝ていたい。なのに家の中に不要と判じたものが溢れているのが苦痛で仕方がなく、気が休まりませんでした。
調子が悪いのに部屋がごちゃごちゃしているのが嫌で休まらない。でもこのごちゃごちゃを解消するための目処が、なにも立っていない。
で、このイライラは結論として、「不用品回収業者に見積もりの予定を入れた」ことで解決しました。
最初に見積もりをお願いしたところはすごくドライな対応で、webサイトに書いていた内容から予想する金額とはまったく違う見積もりが出ました。それでいっそう思い通りにいかないと感じて、不安やイライラを覚えました。
その後もう一カ所問い合わせたところはSNSで探して、近場(なんと徒歩10分のところに事務所がありました)の安心感に加え、印象のいいところだと思ったので連絡しました。SNSは美味しそうな地元のごはんのポストなんかが多くて、ふふっと笑ってしまいましたが、そういうポストにも効果があるのだと実感しました。
直接電話をくれたので、経過や詳細をお話ししました。最初の業者の見積もりについても「こういうことではないか」と説明をしてくれて、気持ちが落ち着きました。
結果として、翌週に見積もりに来ていただく予定としました。この電話を終えたあとはだいぶ気持ちが穏やかになって、「翌週、来てもらうまでにできることをしよう」「自分でコツコツとゴミ出しをがんばることもできるかも?」という気持ちになったので不思議なものです。
というわけで正しくは、「見積もりで解決」というよりは「親身に話を聞いてもらって解決」のほうが正しいかもしれません。
見識ある方と話せて不安やイライラが解消されたこと、行動して前に進めたと思えたこと、次にやることの目処が立ったという気持ちになったことなどが効いたように思います。
しかし振り返りとしては、ここで行動するべきだったかは怪しいところ。結果として良い方向にいきましたが、基本は休むことに集中するほうが無難かと思います。でも個人の状態によるし、望ましい振る舞いになるように毎度行動をコントロールできるなら体調不良じゃありません(なんならもはや病気でもないのでは)。わたしは混合状態っぽいソワソワやイライラが強かったので行動しました……というよりはせずにいられなかったというか。でもイライラを加速させずに済んだのは、ひとえに話し相手になってくれた業者さんが良い方だったからであり、わたしの行動が適切だったというよりはたまたま相手と噛み合っただけです。躁っぽさの影響を受けながら行動している最中に、そのリスクを顧みるのは本当に難しいことだな、と思います。
でも「話を聞いてもらう」こと自体はけっこうな汎用性ある対処だと思いますので、体調を観察しつつ、誰かにとりあえず話を聞いてもらうことくらいはやってもいいかもしれません。これ自体は当たり前のようなことですけれどね。
ジモティーで譲ってみる
片づけ経過の続きです。
業者さんに来ていただく! と決めたら、なんだか自分でもいろいろがんばってみようという気持ちになった、というのは先に書いたとおりです。
そういうわけで、これはゴミにするにはちょっとつらい……というものはジモティーに出しました。ちなみにぜんぶ0円にしました。メルカリは手間だと思ったけれど、ジモティーは買い物ついでとか、外出の口実になるのでこのくらいはがんばるところだろう、と。
びっくりするほど取引の依頼が来て、みんな無料の物に誘惑されるのだな……などと思いつつ、このたくさんの連絡に対応するのがまた、かなり大変でした。でもまとめてドバッと出すほうが、まとめていくつか取引してくれたりするので楽だとは思いました。とはいえエネルギーのゆとりが必要だなとはひしひし感じます。同じことをする方は、決して無理せず。
で、この大変さというのが、明らかに「0円」のせいなんですよね。無料にしておけば物を手放せる確率が上がる。でも大量の定型文もわんさか来て、いちいち相手にするのは割に合わない手間です。正直もっと雑に対応しても良かったんですが、わたしはこういうところで手を抜きたくない人間です。
(余談ですが手を抜きたくない理由は、不誠実な行いは回りまわって仇として返ってくるものだし、逆にどんな場面でも誠実であることは自分を大切にすることだと考えているからです)
こちらが0円と価値をつけずに出すと、あちらも0円の態度なのだと感じました。出品しておいて文句や悪口を言うものではないかもしれませんが、基本的な言葉遣いとか常識に不足があるように思う方も見かけました(なんなら個人情報の取得が目的だなという人もいましたが)。
今回は、「ゴミに出すにはつらいものを、ゴミにせず誰かに譲り渡せた」ことと、「そのために、わたしや物の価値に敬意を払ってくれない人を相手に消耗した」ことがセットでした。では次回からどうすべきか?
現在のわたしの結論としては、「無料では出さない」「無料では貰わない」「無料でも出そうかと迷うものはそもそも手に入れない」としました。三つ目が大切です。手放したいけどゴミにできない、なんてものは端から持つべきじゃないのです。
嫌な思いをしてエネルギーも使いましたが、物の価値を受けとめる感覚が研ぎ澄まされたように思います。苦い教訓です。
あと最後に補足をしておくと、前述したギターだけは最初に有料で出していました。価値を感じる方に譲らなくちゃ友人に申し訳が立たない、と思って有料にしていたのでした。最初から自分でも分かっていたというわけですね。そしてギターの取引相手の方は、とても丁寧な対応をしてくれました。
駿河屋で売ってみる
……と。ここまでがジモティーで「譲渡」した話。
ここからは駿河屋で「売却」した話です。
わたしは以前たくさんゲームをしていたので、我が家にはけっこうな数のグッズがありました。それらをまとめて引っ張り出して、ぜんぶ査定に出しました。
これがなんと、かなりの額になりました。
で、これでうっかりよぎってしまうわけですね。「誰かが買い取ってくれるような、需要のあるものなら安易に手に入れておいてもいいんだ」と。
しかしこれは、冷静にひとつずつ整理をつけていくと、違うと考えておくべきだと思いました。
ポイントは、社会的な「需要」と個人的な「価値」は違うということです。
前述の「手放せない理由に真摯であれるものだけ持つようにする」に則って考えると、「わたし」が手元に置く意味がないと感じるなら、それはやっぱりただのゴミなのです。たまたま値段がつくだけで。
ゴミなのに、ゴミとして手放すことに気後れする。
それはわたしがジモティーに0円で出したものと変わりません。
ただジモティーと違うのは、「相手のほうから」「価値があると提示してきている」ことです(もちろん査定をお願いしたのはわたしですが)。
だからお互いにまともな態度で対応できるのはいいなと思いました。
さて、自分にとってはゴミ……とはいえ、そんなに極端に割り切れるものでもないです。
金銭の授受があるということは、価値をちゃんと示しており、一方的な搾取にならないということなので、無料での譲渡より良いとは思います。当時は本当に価値を感じて買っていたけど、今の自分にはもう不要になったというものは当然誰にでもあります。それを今価値を感じてくれる人が相応のお金で引き取ってくれるというのは、双方にとって悪いことじゃないですよね。
物を所有すること自体への慎重さを忘れてはならないことと、適切に物を所有するのは自分を尊重することであるということ。これを忘れなければ良いのだと考えることにしました。
適切に物を所有する、ということについてはあとでまとめます。
余談ですがこの一連の作業も、すごく疲れました。金銭というリターンがあってもエネルギーが取り戻せるわけではありません。ここでまた疲れて一度落ち込んだので、あまり欲張らず、なるべく省エネにやることも考えたほうがいいと反省しました……。
片づけの終わりと、落とし穴と、後日談
そういうわけでジモティーと駿河屋を駆使しつつ、最終的には業者さんの力を借りて片づけを完了しました。
業者さんに頼んだのは、いわゆる「残置物回収」という呼び方らしいのですが、分別があまりに面倒でお手上げだったものを引き取ってもらいました。まとめて段ボール八箱くらい……。
お金がかかりますので、これを利用するかはもちろん経済的な事情が絡みます。数万かかりましたが、それでも相当に値引いてくれていたのだとは後で知りました。わたしは正直お金がないし、せっかくここまでがんばったので、できることなら自分ですべてやり遂げたいというのが第一の気持ちでしたが、とにかくもうエネルギーが残っていなかった。それに駿河屋での売却で得たお金があるので、ここに充てるのも片づけの一部であり経験だろうと判断しました。
判断の基準は「体調を崩さないか」、そして「納得できるか」。これは他のことにおいてもそうですね。
ちなみにこの回収業者の営業さんとはいろいろな話をしました。
おおむねたいへん楽しくお話できたのですが、それでもやはり病気のことを理解しているひとではない、と思う言動はありました。雑な言い方にまとめると、気分が揺らぐのは誰にでもある、みたいな感じですね。そのときは冷静に受けとめたつもりですが、夜になってやはり落ち込みました。いちいちこんなに揺らいではやっていけないな……とも思って自ら追撃してしまったのは明らかに悪い対処でしたね。
こういう場面でどう応答すればよいのか。まだ分かっていません。言い返すのはたぶん違う、でも飲みこむのも違うと思う。そもそも分かってもらう必要があるのかどうか……。わたしが落ち込まずに流せるのであればそれで十分なのでは? など、ぐるぐると考えました。
楽しく話せる相手でも、いつどこに落とし穴があるか分からない、ということは覚えておこうと思います。悲しいことですが自衛のため。
このようにして、無事に? お片づけが完了しました。
しかしここで終わりではないのです。
実は最初の「観葉植物オススメ」トークは後日、続きが生じていました。「うちの観葉植物がそろそろ植え替え時期だから、春頃で良ければ株分けしてあげる」とのこと。
つまり。お片づけができたのはいいですが、ここでまた「観葉植物のような生活への影響が大きいものを」「友人から貰うという愛着が湧くような手に入れ方で」手元に置くことにして、ほんとうにいいのか!? という熟考と決断を迫られたわけです。
正直お部屋が片づいたことが気持ちよく、そしていろんな学びもあったので、観葉植物を置くことにはプレッシャーを感じます。
いまの考えとしては、たぶん断るだろうなと思います。でもいまは片づけをしたばかりで、考え方もちょっと極端かもしれない。だから春になったらまた考えるつもりです。
さてもうひとつの後日談です。
本棚の前にはみ出ていたものがすべて撤去(あるいは収納)できたため、少し模様替えをしました。椅子を本棚の真横につけて、すぐに本に手が届くようにしました。模様替えまでするのはちょっと気分への影響が大きいかな……と思ったのですが、いまのところ平静だし、快適で気持ちいいです。そして元々椅子があったところに空きスペースができて、ここに簡単な机でも置けば作業スペースを拡張できるな、と考えています。わたしはひとつの机ですべての作業をしているので、机がとにかく手狭です。特にデザイン仕事をはじめて以来、不便さを実感することが増えてきました。
片づけをしたのに早速物を増やすの? という点では慎重でありたいですが、片づけの成果としてはこれ以上のものはありません。どのみちゆくゆくモニターを置きたい思いもあり……時期はともかく、いまのところは前向きに検討中です。
双極症当事者のお片づけ
経緯をすべて書き切ったところで、双極症当事者の視点でも少し書きます。
なにごとにも当然ですが、片づけも体調と相談しながら進めていく必要があります。そして片づけは思った以上の大仕事でした。わたしの場合は懐事情との相談も必要でした。しかしそれでも体調優先です。片づけのために健康を犠牲にしてはならないです。今回の片づけの動機は体調管理だったのでなおさらです。
今回は結論として金銭的な収支がプラスとなりましたが、どちらであろうと体調優先。マイナスになっても、お金を払った経験を積むというか、実感を噛みしめるのも片づけの一部として今後の役に立つと思いますし。
さてご存知の方もいらっしゃると思いますが、双極症には気分反応性があります。日常の出来事の影響で、気分が浮き沈みしやすいということです(そしてその波が大きい)。経過を読んでお分かりのとおり、今回の片づけ中にも浮いては沈み……をしています。片づけによるものもあるし、それ以外の出来事によるもの、そして特にきっかけを認識していないものもあります。気分反応性がすべてじゃないですからね。
さらに双極症の当事者は、躁で買い物をしすぎることがままあります。片づけの話からは逸れるようですが、片づけは「適切に物を所有する」ことが本質であると考えたため、そこから外れていく状況として買い物についても触れます。
過度の買い物は病状のひとつであるので、マインドでは防げないのだろうと思います。幸いにしてわたしは大きな躁転はしたことはありませんが、それでも悪口が止まらなくなったりとかそれらしい状態を味わったことはあり、躁は自分のコントロールを自分でできなくなる状態だということは分かっているつもりです。
でも少しくらいは「適切に物を所有する」ことに対する考え方、その習慣が、抑止力になってくれないだろうか? と思わなくもないです。それはさすがに甘い見積もりであっても、ふだんの物の買い方から乖離したとき、躁の兆候に早く気づくことはできるかもしれません。自分がだめでも周りが、ということもあります。
当事者も、躁の兆候を自分で注視できるものです。物を所有することに対する考え方は、観察する軸のひとつになり得ると思います。
買うのも問題ですが、捨てることについても注意がいります。ここまでの話で察していただけるかもしれませんが、買うことと捨てることは表裏一体のように思います。
物を所有することに対する考え方は、物の手放し方にも当然反映されます。
わたしは今回の片づけにおいて、躁の影響としては、買うことより手放すことのほうが危険であると感じました。買うのは基本的に、お金が無くなるだけです。もちろんそれも著しく生活を脅かすので、軽く考えてはなりませんが……。
でも手放すことは適切にやれなかったときに取り返しがつきません。必要なものまで捨ててしまうかもしれない。なのに生きていくうえで「手放さない」ことは無理です。極端に物に溢れていて、まともな寝床もないようであれば、健康に生きていけるはずがありません。買うことは財布を誰かに預けてカードも解約しておけばできませんが、手放すことはそれこそ業者でもいれない限り解決しません(それもお金がないとできませんし……)。
この、物の所有に対する「適切」の感覚を磨いておくこと。
これは経験と習慣であると思います。この経験と習慣の有無で、たとえ躁にとって買いすぎ・捨てすぎても、その影響は変わるものだと考えています。
それだけ、今回の片づけは身に心に、そして考え方に大きな影響をもたらしたということです。
躁と鬱の話で言うと、テンションは明らかに高めでした。当たり前かも? 鬱が強かったらこんなことはできないですからね。
でも概ね満足な判断ができた……と現状は思っていて、その要因として役に立ったのは、以下のことだと考えています。
- この記事を書きながら進めた
- 動機づけがしっかりしていた
- 本や他者の意見を取り入れた
ひとつめ。この記事の経過は随時記録していました。これによりわずかなりとも客観視ができたように思います。「これだけ大変なことをしたのだから、疲れたのは当然」とか、逆に「これだけのことをやっているのはやっぱり気分が上がりすぎている」とか。ついでに、いつもながらchatGPTにも逐一話しかけていました。これはもっと詳細な気分の揺らぎなどを報告していたというか、友達に話を聞いてもらう、くらいの感じでした。
ふたつめ。今回は「観葉植物を置きたい」という明確な動機がありました。動機もなく突然片づけをはじめていたとしたら、だいぶ体調が怪しかったということだと思います。実際主治医には、「片づけをしています」と言ったところ、かなり懸念されました。明確な動機があることを説明して納得してくれたような感じがあったので、なんのきっかけもなしに徹底的な片づけを突然はじめるのは、それ自体がなんらかの病状というか、サインであるようです。
みっつめ。まず本を読んで、「こうやると負荷が少なそう」とか「どうもこういう反応が起こりそう」とか、いろいろと心構えや準備ができたのは良かったように思います。また、片づけが得意な方に話を聞いてもらったのも良かった。自己流で孤独に突っ走らず、本や他者を頼ることで冷静・慎重でいられる効果を得られたと感じています。ブログの記録と並行して、SNSでの進捗報告もしていました。これは客観視ではなく、まさしく他者に見てもらうことであり、なにか異変があれば意見がもらえるだろうという思いがあって心強かったです。もちろん、誰が見るのかは大事ですが(信頼できる方がいるプライベートのアカウントでつぶやいていました)。
まとめ:片づけは自分を扱うこと
ここまでに書いてきたとおりですが、物を片付けることで非常に気軽になり、片付かないことや、執着が手放せないことで苦しくもなり、でもそれを糧とするような考えの転換を学んだりしました。今回の学びで大きなものは以下です。
- 思うような手放し方ができるとは限らない
- 物を安易に扱うことは、気持ちに負荷をかける
- 不要だと判じたものが家の中にあるのは苦痛
ひとつめですが、服がメルカリで売れなかったことでこのように思いました。ノーブランドじゃないし、本当にすてきな服だから誰かが欲しいと言ってくれるかなと思っていたんですよね。でもそう上手くはいかなかった(やり方次第ではあるかもしれないですが)。
で、不本意な手放し方をしたことから教訓を得ました。
それは前述のとおり「物は簡単に、思い通りには手放せない」こと、そして「不本意ながらゴミに出して苦い経験をすると、手放し方まで考えて物を扱うようになる」ということ。
これは大きな実感ですが、それでも裏返すと、「引き取り手が見つかったり値段がついたりするならば、手放し方を考えず気軽に所有してもいい」と思うことにもなります。
これを裏返さないためにふたつめがあります。
ふたつめの「物を安易に扱うことは、気持ちに負荷をかける」について。これは主にジモティーから。改めて書くのも疲れますが……無料で出すといい加減な態度の相手ばかりが来ます。そんな物を保管していたのか、と思うのも疲れます。安易というか、これも「適切」と言い換えるほうがいいかもしれないですね。適切に扱えないとすごくストレスになる。大事にしていたはずの物の価値が肯定できないようになり、大事だったという気持ちも消耗します。大事だった物は、本当はそれなりの手放し方がしたいという気持ちがある(でも前述のとおり、それはできるとは限らない)と実感したということです。
みっつめ、「不要だと判じたものが家の中にあるのは苦痛」について。いらないものがそのへんにたくさんあるのは、すごくストレスが溜まります。これまで家の中を占領していた物が、本当は今の自分にとっては価値を感じられないものだったのだと思うとなおさら疲れます。
この苦痛はなかなか強烈でした。これはひとつめと同じように「手放し方まで考えて物を扱う」という学びに繋がったと思います。
ふたつめとみっつめは、裏返すと「物を大切にしているとストレスがない」「必要だと判じられるものだけが家にあると気分が良い」という感じでしょうか。このように言い換えると、片づけのポジティブな面がよく実感できますね。
なんというか振り返ると、総じて「捨てる」「片づける」というシンプルな動機づけがとにかく一本の柱として保たれつづけることが、かなり大切なことだったように思いました。逆に言うとどれだけ必要性を説かれても、自分の気持ちが向かないと無理だなと。
なので、「やらなきゃ」の間はやらなくていいと思います。そうも言っていられないのであれば、「やりたい」に変わる方法を探すのがいいと思います。
また、「物を捨てる」ことより、自分がどう生活したいかに視点を持つことが大切だと思いました。そこにあってほしいものだけに選別していく。なんだって「勿体ない」とか「高かった」「貰った」とか捨てない理由はあるものですが、その物があることで自分の生活にどう寄与してくれるのかを考えると、貢献してくれないものを手元に置く虚しさ、苦痛が出てきます。
そしてこの苦痛とは、「自分の生活のコントロールに対するストレス」のことです。極端ながら、物を適切に扱うのは、自分を適切に扱うことに通じると思いました。片づけを通じて、自分を大切にする方法のひとつを学びました。やってみて良かった。
ほんとのまとめ?:なにを学ぶかという視点を持つ
長くなりましたが、最後にもうひとつ!
つらつら書いたとおり、相当疲れたし、学びもあったし、大波乱の片づけでした。
ただ、「片づけ」から一歩引いたところでの大きな学びがもうひとつあります。
それは、「この経験からなにを学べるか」という視点を持つと、苦い出来事にもポジティブな意味を見いだせるのだということです。
これが相当な収穫だったので、片付けの記事としては蛇足のようだけど、最後に堂々と書きます。
今回のながーい記事の中では、「収支マイナスでも、お金を払う実感やマイナスを噛みしめることも経験」「思うように手放せなくて苦い経験をしても、手放し方も考えて物を所有するという今後につながる」などの学びを書きましたよね。
この学びがないともっと疲れたでしょうし、結局手放せなかった物もあったのではないかと思います。気持ちの持ちよう自体は病気のコントロールにつながらないと思いますが、ストレスは減らせるし、物事に対する積極性も保てます。病気そのものはともかくとしても、今できることの結果は変わるということです。その積み重ねが生活環境を作るし、良い生活環境は良い休養、ひいては病状のコントロールにつながると思います。
今回の片づけ、非常に学びの多い、実に良い経験でした。
それだけにまとまりのない記事になってしまいましたが、なにか参考になる部分があったらいいなと思います。
お読みくださりありがとうございました!
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